レイモン・サヴィニャックが活躍した時代は、20世紀の前半から中期にかけてのフランスの広告業界が隆盛期を迎えた時代でした。
第一次世界大戦後の経済成長に伴い、商品の需要が高まり、企業はその需要に応えるために広告に力を入れるようになりました。
広告業界は、新聞、雑誌、ポスター、ラジオなどのメディアを通じて消費者に商品をアピールするためにさまざまな手法を開発し、競争が激化しました。

この時代のフランスの広告業界は、芸術やデザインに対する関心が高かったため、アール・ヌーヴォーやアール・デコなどの美的観念が広告業界にも取り入れられました。このような美的観念を取り入れた広告デザインは、広告自体が芸術作品としても認められるようになり、ポスターは特に、美術品としての価値を持つようになりました。

レイモン・サヴィニャックは、この時代のフランスの広告業界で活躍したアーティストであり、この時代に花開いた広告デザインの黄金期を象徴する存在といえます。

生い立ちとカサンドル時代~サヴィニャックの成長と才能の軌跡

 1907年11月6日、パリの15区にあるジャンヌ・アシェット通りで、後に「フランスポスター界の巨匠」と称されるレイモン・サヴィニャック(Raymond Savignac)が生まれました。

 サヴィニャックは、パリ13区のグラシエール街でカフェ・レストランを営む両親のもとで育ちました。幼少期から美術の街として知られるパリで過ごし、周囲の芸術に触れる機会に恵まれました。彼は自転車競技の選手になる夢を持っていましたが、やがてそれを諦めることになりました。しかし、彼は自分に素描の才能があることに気づき、15歳を過ぎた1923年にパリ交通公団のデザイナー兼トレース工として働くことになりました。美術学校に通うことはできませんでしたが、夜学で工業デザインを学ぶ機会を得ました。

 しかし、やがて不況の影響でパリ交通公団を解雇されてしまいました。1925年、サヴィニャックは幸運にも広告アニメーションの第一人者であるロベール・ロルタックの事務所に紹介され、そこで働くことになりました。ルーポやカルリュ、コラン、カッサンドルといった有名なポスター作家たちの作品の模写に励む日々を送りました。ロルタックのやり方には馴染めなかったものの、この時期に彼は技術とアイデアを磨くことができました。


 1928年、兵役を終えてパリに戻ったサヴィニャックはロルタックの事務所を離れ、いくつかの仕事を転々としました。エアブラシの技法が苦手だった彼は自信を失い、職も見つからない日々が続きました。しかし、1933年、彼が憧れていたカッサンドルが働くアリアンス・グラフィック社に紹介状も持たず、ささやかなポートフォリオを手にしてその門を叩きました。

 サヴィニャックは思いもよらない幸運に恵まれました。カッサンドルとの初対面で仕事を依頼され、さらに臨時の助手として雇われることになりました。そうしてサヴィニャックはカッサンドルのもとで修行を始めることとなりました。2年後の1935年、カッサンドルはヴェルサイユに自宅アトリエを構えました。そして、その正式な助手としてサヴィニャックも同じアトリエに移りました。

才能の共鳴~ヴィユモとの出会いがもたらしたサヴィニャックの躍進

 アメリカへと旅立つことになったカッサンドルのもとを離れた1938年までサヴィニャックのカッサンドル修行時代は続きました。その後、カッサンドルの推薦により、ドレジェール印刷で働く機会を得ました。翌年の第二次世界大戦が始まるまで働きました。この戦争により、カッサンドルの影響をどのように脱却し、オリジナルのスタイルをどのように築くのかという課題と向き合っていたサヴィニャックの”本当の”ポスター作家としてのキャリアの始まりを遅らせることになってしまいました。

 1940年、サヴィニャックはマルセル・アンドレア・メルシエ嬢と結婚し、パリ市内のジルクール通りで39年間を過ごしました。

 彼はパリで開催されるイラスト見本市にデッサンを出展しましたが、転機は広告プロデューサーのロベール・ゲランによって訪れました。ゲランはサヴィニャックのデッサンに魅了され、1943年に彼がアートディレクターを務める広告事業連合(広告コンソーシアム)に入社する機会を与えました。
入社当初はカッサンドルの影響が見られましたが、2年後にはサヴィニャック自身のオリジナルなスタイルを確立し始めました。 サヴィニャックは1947年まで多くのポスターを制作しましたが、仕事中にチェスをしている姿を目撃されて解雇されてしまいました。

 仕事を失ったサヴィニャックを救ったのは、すでに活躍していたポスター作家のベルナール・ヴィユモでした。ヴィユモのアトリエに居候することになり、2人で展覧会を開く提案を受けました。この『二人展』は1949年5月から20日まで開催され、1949年の展覧会は大成功し、プレスからも絶賛されました。
 展覧会告知のポスターはサヴィニャックが手掛け、ふたりの男性が描かれた看板を首からぶら下げています。

 この時、サヴィニャックは片方の男性に髭を描くことで差別化を図りました。このポスターをきっかけに、サヴィニャックがトレードマークである髭をはやすことになったのは有名な話です。
 展覧会には、かつてサヴィニャックが勤めていた広告事業連合の雇い主であったウジェーヌ・シュレールも訪れました。シュレールはロレアル社やモンサヴォン社を経営する実業家でした。彼は展覧会でサヴィニャックが描いた「自分のお乳で石けんをつくり出す牝牛」のポスターに感動し、直ちにその原画を買い取りました。そして1950年にはそのポスターが印刷されました。この原画はもともとモンサヴォン社のために描かれたもので、この展覧会のためにサヴィニャックが借り出してきたものでした。

 このモンサヴォン社のポスターをきっかけに、サヴィニャックは一気に注目を集めるようになりました。彼の自伝では「わたしは41歳の時にモンサヴォン石けんの牝牛のおっぱいから生まれた」と述べています。

サヴィニャック黄金期:サヴィニャックの輝ける時代と広告業界の変革

 1950年以降、サヴィニャックは数々の傑作と称されるポスターを生み出し、いわば「サヴィニャック黄金期」とも呼ばれる時代に突入しました。

 多くの大企業がクライアントとなり、サヴィニャックはそれらのブランドのポスターを制作しました。ブリュナビール、ペリエ、トブラーチョコレート、パリ誕生2000年記念ポスター、ピレッリ、チンザノ、トレカ、ジターヌ、オリヴェッティ、ダンロップ、ドップモンサヴォン、エールフランス、フリジェコ、ダノン、ワゴンリ・クック、ティファール、オモ、アスプロ、ルノー、オレンジーノ、ヨープレイト、ミシュラン、ペプシなど、これらのブランドのポスターはブランドのアイデンティティや魅力を見事に捉え、視覚的に魅力的なメッセージを伝えることに成功し、そのどれもがポスターの傑作として高い評価を受けました。

 サヴィニャックのポスターは大衆に訴えかける力がありました。彼は広告の目的を的確に把握し、ターゲットとなる観客に響くメッセージを表現しました。その結果、彼のポスターは視覚的なインパクトを持ちながらも、人々の心に響く深い印象を残すことができました。

 サヴィニャックのポスターはその後も多くの広告作品に影響を与え続けています。彼の創造力と才能はポスターデザインの歴史において不朽の存在となり、多くのデザイナーやアーティストによって尊敬され続けています。

 1955年、サヴィニャックは超売れっ子となり、アメリカの広告業界から「ライフ」誌のポスター制作の依頼を受けました。
 当時のアメリカでは「ひとつの広告を分業してつくる」現代的な仕事の進め方へ既に変化していました。広告主と直接仕事をすることが好きで、全部自分でやりたい職人気質のサヴィニャックはこのシステムにうんざりしてしまいました。

 サヴィニャックと一番長く、多くの仕事をしたのがビックでした。ビックボールペンのボールの頭をしたキャラクター『BIC BOY』は、サヴィニャックのデザインの中から1960年に誕生しました。

 1970年代に入ると、サヴィニャックが苦手としていた「代理店システム」がフランスでも徐々に導入され始め、広告自体もイラストに代わって写真が多用されるようになりました。その結果、サヴィニャックの仕事も減少していきました。そんな受難の時期に、サヴィニャックは1971年に「貼り紙禁止展」と呼ばれる24点の連作風刺画を開催しました。これまでの明るくユーモラスな作品とは異なり、現代社会を批判する内容であり、商品広告以外の領域にも仕事を広げる試みでした。しかし、この実験的な展覧会は大きな反響を得ることはありませんでした。それから数年後の1975年には、サヴィニャックは自伝を出版しました。少年時代からのエピソードと共に、広告代理店への批判や広告業界との理想のズレに対する苛立ちが綴られていました。

パリからトゥルーヴィルへ:サヴィニャックのトゥルーヴィル時代

 サヴィニャックは理想とかけ離れたパリでの生活に疲れを感じ、1979年に生粋のパリジャンとしては思いもよらない場所、ノルマンディー地方の小さな港町トゥルーヴィルへの移住を決意しました。しかし、第一線から退くのかと思われた彼は、1981年にシトロエン社の広告キャンペーンポスター制作の依頼を受け、大復活を果たします。この「シトロエン前へ」キャンペーンは、写真広告主流の時代に逆らって「手描きポスター」を選んだ斬新なアイデアでした。そしてサヴィニャックの手によるポスターは大成功を収め、フランスポスター大賞や広告掲示大賞を受賞することとなりました。

 トゥルーヴィルに移り住んだ後も、サヴィニャックのポスターは途切れることなく制作されました。彼の作品は徐々に「商品の宣伝」から「環境保護や福祉問題(ユニセフなど)」をテーマにしたものへと変化していきました。トゥルーヴィル市民にも愛されたサヴィニャックは観光案内所のために空色の地に2羽のかもめがくちばしをつつき合っているデザインの旗や地元商店のポスターや外壁画を制作しました。

トゥルーヴィルに関連するサヴィニャックのポスターのほとんどにはカモメが描かれています。例えば、カモメの形をしたパイプを吸う船員を描いたポスターも制作しています。サヴィニャックの旗は現在、観光局で使用されています。市立美術館や観光案内所などには数多くのサヴィニャック作品が飾られ、2001年、ビーチの遊歩道は「プロムナード・サヴィニャック」と改名され、彼の最も有名なポスターが飾られました。トゥルーヴィルでの生活環境の変化が彼の創作にも新たな風を吹き込んだのかもしれません。

 そして遅咲きのポスター職人として、サヴィニャックは年齢を重ねても勢力的に活動しました。95歳の誕生日を迎える少し前の2002年10月30日、彼は最後の日まで震える手でデッサンを描き続けました。その熱意と才能は多くのファンに愛され、今もなお彼の素晴らしいポスターは世界中で親しまれています。

画像の出典情報/©Marcelle Savignac ©Ouest-France ©Bic Japan
参考文献/「芸術新潮2005年6月号(新潮社)」「Raymond Savignac A MAster of French Poster Design/ThierryDevynck(PIE Books) 」「Raymond Savignac L'affiche de A to Z(hoebeke)」